さばみそ日記

面白いか面白くないかは置いといて、読んだら何か言ってくれるとうれしいです。喜びでちょっと跳ねます。

木を隠すなら森。

 自分の思い込みを思い込みだと認知することが大切だ。

 例えば、トマトは赤くなった状態こそ甘く、その時に食べてこそおいしいものだ、と思っている間は、緑のトマトを食べることはない。緑のトマトにどんな使い道があるかを探ろうとしない。それは一つの可能性を捨てることだ。

 私は叫ぶことが好きである。いろんな叫びたいことがある。イライラしたこと、悩んでいること、どうでもいいこと。でも、あまり人に聞かれたくはないし、そういう風に思っていることがあることすら悟られたくない。それを解消するために人知れず叫ぶ場所がほしい。この話をしたところ仲間から、そう思っている人は他にもいるだろうから、好きなだけ叫べる防音の個室というのを商売としてつくったらいいのではないか、という案が出てきた。それは良い案だと相槌を打ちながら、私の脳裏によぎったのは、「木を隠すなら森」という言葉である。

 いっそのこと、大人数を一つの大きな防音の部屋に集めて目隠しをして全員に叫ばせればいいのではないか。そうすれば自分の叫びがほかの人にばれることもないし、また他人の叫びによって自分をさらに爆発させることができるかもしれない。そして、叫ぶ場所として映画館を使うことができるかもしれないということも思った。その場合、各自の場所までの誘導はロボットにさせ、登録用の名前は全員偽名を使うことにより、叫ぶことで互いに誰なのかわかってしまうことを防ぐ。防音に関しても、もともと映画館は大音量に耐えうるように作られているのだから周りへの音漏れという問題はない。やろうと思えば館内で大音量で音楽を流すこともできる。さらに、目隠しをVRにすればもっと彼らが叫びたい状態に近づけて叫んでもらうこともできるかもしれない。

 これだけ書いたが、私の言いたいのは、物は使いようであり人もまた同じである、ということなのだ。使えない人などいない。使い方が悪いのだ。あともう一つ、「使う」などといったが、まず前提として、人は道具ではない。全て自分の思い通りに行くなどと思ってはいけない。彼がやりたいと思ったことにしか百パーセントの力は発揮できないのだ。それをよく覚えておくといい。