さばみそ日記

面白いか面白くないかは置いといて、読んだら何か言ってくれるとうれしいです。喜びでちょっと跳ねます。

宗教、哲学、科学、政治

 宗教と哲学と科学と政治は、人間の生活に大きな影響を与えている。これまでの人類の歴史を見ても、歴史に語り継がれるような出来事というのはほとんどこれら四つのうちのどれか、もしくはいくつかが重なり合って起こっている。

 少し前にも書いたが、私は真理というものがただ一つ存在するとは思っていない。それぞれの真理があり、お互いに譲れないものを持っている。そしてそれぞれの真理の根拠となるものが、宗教であり哲学であり科学であると思う。ある人は宗教を信仰する。ある人は心に決めた哲学がある。ある人は科学的根拠をもとに、自分の立場を表明する。それに何の問題もない。

 ただ、地球というのは私だけが住んでいる場所ではない。他人がいて、他の宗教を信仰する人がいて、他の哲学があって、科学を信じない人たちがいる。その中で我々は生きていかなければいけない。それが人生である。そして、一部の人々は自分の真理以外を認めず、自分、もしくは自分のグループの利益を最大化しようとして、他の真理を持つ人々から自分たちのためになる何かを奪おうとする。そうなると争いが起こるのは必至であるが、できる限り自分は損害を被らず、利益は最大化したい。その時にお互いの真理をいったん脇に置いて意見交換をし、折衝することが必要になってくる。それが政治である。

 国単位で見たとき、昔の人類にとって重要だったのは、衣食住のもととなる資源であり、それを有する土地であった。現在は、さらに富を増大し、自国が存続し繁栄していくための「知恵と知識」を得ることが最優先事項となっている。

 世界中で人間が起こすすべての物事を見るときは、「たいていの人間は自分が一番かわいいのだ」ということを肝に銘じておかなければならない。これを忘れると、物事の裏で何が起きているのかが正しく把握できなくなる。

 自分が一番かわいいということは、人間として生まれついた以上しょうがないことである。それ自体に善も悪もない。それに、人生を過ごしていると、「自分よりもこの人を大切にしたい」と思うような奇跡的な出会いを経験することもある。

 しかし私は御多分に漏れず、自分が一番大事な人間である。傷つけられたくないし、できる限り幸福に暮らしたい。だからこそ、他人も同じように尊重しなければならないと思っている。誰も傷つきたくないし、みんな幸せになりたい。それを本人の意思を尊重せず頭ごなしに否定することは、私にはできない。それをした時点で、私は私にも同じことが起きることを容認しなければならなくなる。そうならないために、できる限り互いに尊重しあった政治的判断をいつもしていきたいと思っている。それこそが自分が自分らしく生きるための必要条件なのではないだろうか。

てるてるぼうずをさかさまに

 雨が降ってる。今年は梅雨にあまり雨が降らなかったけど、終わってからの方が梅雨っぽい雨が降ってる気がする。

 雨が降るという言葉一つ取っても、それが一人一人に与える意味はいろいろある。外に出なきゃいけないのに雨降ってるから最悪だ、とか、この前買ったオシャレな傘をさして出かけられてラッキー、だったり、それぞれの立場で雨はいい出来事にも悪い出来事にもなる。今日の僕の場合は、洗濯物を出し入れしなくていいからまあいいかって感じ。でもこの後出かける予定があるから、その時も降ってたら結構いやだな。

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 自分の嗜好で物事の良い悪いはいとも簡単に変わる。これってどこの世界に行ってもほとんど変わらないのではないかと思う。それを忘れてただ一つの真理がこれだと決めてかかると、それは結局自分の考えを押し付けることにつながって、自分の脳みそから何時も正解が出てくるような錯覚を覚えるようになる。

 中学時代の歴史のテストで、僕は鎌倉幕府成立年を「いいくに作ろう鎌倉幕府」で1192年って覚えて正解していた。でもそののちに鎌倉幕府は1185年成立なんじゃないかって話になって、今では成立した年は1185~1192年あたりでしょうってことになっている。全世界が答えを共有してたものすら、いろいろな研究を経てやはり正解はわからないってことになった。もちろんその時代の人たちは正確な成立年度を知っていたという意味で真実は1つなんだが、「ほとんどの人が信じていたものが覆った」という点で、これはいろいろなことを暗示してると思う。

 何かに確信を持ったり信じたりすることは大事だろう。それによって人は安心したり、大きな力を発揮したりすることができる。ただ忘れてはいけないのは、あくまでも私が確信し、信じているのであって、周りの人は必ずしもそうではないということ。私の世界とあなたの世界は違うんだ、ということ肝に命じておかないと、自分以外の考えを理解できなくなってしまうだろう。

 雨が降っている。隣で座ってる友達に雨をどう思うか聞くと、彼は雨の日が好きだと言う。理由は、「なんかいいかんじだから」らしい。これは理解するのが大変そうだ。

何を選ばないかを選ぶ。

 何を拾うかと同じくらい、何を捨てるかは重要だと、最近思います。

 

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 優柔不断という言葉を耳にすることがありますね。今日は、ポジティブな優柔不断について考えてみましょう。ポジティブな優柔不断というのは、どの選択肢にも可能性を感じてしまって決められないパターンの事です。私が勝手に名付けました。

 では、ポジティブな優柔不断の正体は何なのでしょう。私にとってその正体は、「恐れ」なのではないかと思います。では具体的に何に対しての恐れか。それは、「手に入れられたかもしれない成功を捨てること」に対する恐れです。

 何かを選ぶということは、言い換えればそれ以外の可能性を捨てるということです。たいてい何かを迷っているときというのは、それぞれの可能性が実際にはどんなものなのか理解できておらず、また、何を選ぶかの条件が明確に定まっていないときです。そうなると、どの選択肢も同じものに見えてきます。

 簡単な例を挙げましょう。あなたは今レストランにいます。ショーケースにあるサンプルを見てどの定食を食べるか選んでいます。そこで、これが食べたい!と即座に案が決まればいいのですか、どれにするか迷うこともありますよね。では、その迷った時に考えていることは何でしょうか。普通に言葉にすると、

「これおいしそう!あれ、これもいいな。こっちもいい。これもいい…。どれにしよう??」

 と、まあこんな感じだと思います。ではどうすればこのご飯決められないスパイラルから脱出できるのか。そのカギは、この思考の過程の中にある多くの段階を理解し、それらの精度を高めていくことにあると思うのです。

 

 いつもはパターン化して考えているものを解きほぐす。どれをどんな理由でどれくらい欲しているのか。それをだいたいでいいから自分の中で数字にしてみる。

 

 大変ですが、これによって少しは客観的に選択肢を見ることができるようになるのではないでしょうか。

先生のきれいごとは教室で実行されない。

 学校にいじめはありません。

 こう言って真に受ける人は少ないと思います。どこの学校にもいじめはあるし、いじめる人はいます。しかしこれを、こと生活態度に移すとどうでしょう。生徒というのは全ての人を尊重し、思いやりにあふれ、勉学にまじめに励むのものである。それこそが正しい生徒だと思っていないでしょうか。現実に教室を見渡せば、騒ぐ子はいるし、情緒不安定な子もいるし、頭がいいせいで授業をつまらなく感じて放棄している子もいるのに、先生はそれを自分たちの技量不足だとは認めない。生徒があるべき姿にいないのが悪いのだ、と考えてしまう。生徒が何を思っているかを感じようともしない。自分の心地よい生徒像に近づけようとしている。そんなことはないでしょうか。

 私は、生徒それぞれの特性に合わせた指導をして、子供たちを楽しく学ばせてあげるのが教師のやるべきことだと思っています。なぜなら、子供たちが学生時代に親の次に長い時間接する大人は、学校の先生なのです。その先生たちが子供に与える影響は小さくないと思います。そして現状、生徒の特性に合わせた指導ができる教師は少ないのではないでしょうか。

 もちろん自分の学生時代にも、この人はいい人だな、と思うような教師はいました。彼らのことは非常に尊敬していますし、今も連絡を取り合っています。ですが、どの先生も授業はつまらないことの方が多かった。いつも工夫を満載に楽しんで授業をさせてくれるような先生はいなかった。どんな授業が一番かいいかなんて決めることはできませんが、少なくともいくつかの科目はその授業のつまらなさのせいで嫌いになったと言っても間違いではありません。

 学校の先生は、正解を知っているだけではいけません。子供たちの特性を見抜き、良さを伸ばし、ダメなことをダメだと理解させなければいけません。

 私は、先生にも多様性はあってしかるべしだと思っています。ジャージでくる先生がいたっていいし、ものすごく厳しい先生がいたっていいし、弱さを抱えた先生がいたっていいのです。社会に出ればいろいろな人がいます。だからこそ、彼らは学校で多様な人々と出会い、それぞれの違いというものを身をもって感じ、いい方向へ導かれていくために、先生にはその場を治める指導力をもっていただきたいのです。f:id:miz-awesome-ic-champ:20170725043528p:plain

 先生というのは、ただ哲学者であるだけではいけません。ある部分では人々の意見を折衝しながら前に進める政治家でなければいけません。

 

これからの日本を背負うのは子供たちです。そして最前線で彼らとともに生活し、自分の生活を犠牲にしてまでも彼らのために一生懸命やろうとするあなたたちの仕事は素晴らしい。誇りを持っていただきたい。

だからこそ、彼らが大人になった時に、ああ、あの先生のおかげで少し学生時代がいい感じだったかも、みたいに思ってもらいたい。そのためにできることはなんだろうと考えてほしい。

元学生からの意見でした。

マルチと世界

 マルチ商法というものを聞いたことがあるだろうか。正確に言うと連鎖販売取引、会員になった人が口コミで連鎖的に売っていく商法のことだ。自分が紹介した人が会員になり、売り上げが増えれば、紹介料が会社から自分に入る仕組みになっている。これはアメリカでは認められていて、amwayという会社のボスもアメリカ商工会議所の会頭になっている。儲かっているのは間違いない。

 マルチ商法の勧誘を何年か前に受けたことがある私の経験から言わせてもらうと、マルチの直販員というのは、儲けられる人と儲けられない人が分かれる仕事である。マルチ商法で儲けるために必要なのは、「たくさんの知り合い」と「営業力」この二つだ。

 一部の直販員の名誉のために言っておくと、何人かの直販員は悪いことをしているつもりはない。むしろいいことをしていると本気で思っている。

 私はマルチ商法で目が血走って大変なことになっている人を知っている。問題が起こりまくっていることも知っている。それによって日本ではマルチ商法のイメージはかなり悪い。私もいいイメージはもっていない。友達からその話を振られると非常に悲しい気持ちになる。だから私はそのような思いを持つ人を増やしたくない。だからそれを広めるようなことはしない。私の倫理観に合わないことをやる必要はない。

 マルチをやっても友達が減らないのならやる。だが、マルチをやったらほぼ減ると思っていい。なぜなら私がマルチを持ち掛けられたらその友達に対して悲しい気持ちになるからだ。私はマルチで儲けられるような人ではない。自分の利益になるということを隠して「あなたのためなのです」という顔をして近づくようなことはしない。それで得られたかもしれないお金は、もともとなかったお金なのだ。成功を望む人すべてが幸せになれる社会は、成功を望む人にとっては素晴らしい社会かもしれないが、成功を望まない人には生きづらい社会かもしれない。どんな人も良く暮らせる社会の方がストレスなくて楽しいんじゃないか。その人のやさしさだったり喜びだったり満足だったりを公共の福祉に反しない範囲で実現できる社会が私の好きな世界だ。それぞれ好きな世界は違うのだから、それぞれが好きな世界を自分の周りに作り、その世界に共感する人が集まればいいのだ。そしてそれぞれの世界が折り合いをつけながら共存すればよい。

 世界には好きか嫌いかしかないのだ。絶対的な正義はない。それを理解しないなら、自己中心の世界にいると思ってほしい。その口から「私は人のためにやっている」などという言葉を吐かないでほしい。それは巡り巡って自分のためにやっているのだ。落ち着いてよく考えてみてほしい。私たちは同じ人間だ。完璧な人などいない。私が完璧でないようにあなたも完璧ではない。私は社会主義者ではないが、貧困の人たちをできるだけ助けたいと思う。私は貧困層ではない。むしろ富裕層側だ。十分な衣食住があり、属するコミュニティがあって、毎日楽しんで生きている。貧困層には私より多くの才能を持つ人々がたくさんいる。素晴らしい人々がたくさんいる。彼らのことを考えずして何が「世のため人のため」なのだ。

 私は薄っぺらい「利他的な人間」にはなりたくない。

物事の起源に迫る

 俯瞰して遠くから見つめること。本質の問いに答える力。物を密度濃く考える。一つ一つの現象をくっつけて接着させて考える。

 鎌倉には約一万年三千年前に人が入ってきた。時代の流れによって幕府ができる前から鎌倉は源氏ゆかりの地であった。奈良京都と時代が移り変わり、清和源氏が各地の有力者たちに次々と勝利鎌倉幕府が誕生した。

 海辺からはおびただしい数の人骨が出土している。砂浜は昔処刑場としても使われていた。またそのころ火葬は身分の低いものはすることができず砂浜に単体で遺体を埋めることがあった。

 北条政子は頼朝の妻。巧みな演説で兵士を盛り上げることができた。

 お上が全体統制を敷こうとすればするほど市民からは反発が出る。蒙古襲来によって外国の脅威が増し、幕府は日本をまとめて統治しようとした。それに反感が集まり、倒幕されることになった。そののち鎌倉府が移転し統治者がいなくなった鎌倉は農村漁村へと様変わりする。明治にドイツ人博士が鎌倉を保養地として紹介する。それにより数々の別荘が建てられ観光地化した。静かな土地には文豪が集まった。かの杉原千畝も余生を鎌倉で過ごした。交通機関の普及も大きな役割を果たした。

 鎌倉の歴史が身近に感じられる。この地は昔地震津波によって大きな被害を受けた。それを教訓にせねばいけない。歴史から学ぶ賢者であらなければいけない。防げる被害を防がなくていい人たることがどうしてできよう。

 私にとって歩いたり走ったりすることは、ただの移動手段である。ではそれを目的にする人などいないと思うか。陸上選手はそれを極める人々であろう。彼らのことを笑うか?私にとって手段でしかないことに全力を傾ける者を笑うことに果たして正当な理由はあるのか。そのような心の狭い人間に私はなりたくない。

 やりたいことがたくさんある。早く私は自立したい。お金を自ら稼ぎ、それを管理し、自分に責任を持ち生活したい。そのためにやるべきことをしていこう。やるべきでないことを見極めよう。頑張ろう俺。

死ぬまで生きる

 生まれたら死ぬ。それが僕らの人生でただ一つ決まっていることだ。

 人生の解釈は千差万別。「どうせ死ぬ」という前提から思考を始めても、死ぬなら思いっきり楽しもう!というポジティブマンがいる一方で、死ぬんなら生きるだけ無駄じゃん。もう何でもいいや。と思う人もいる。人間は負の感情に引っ張られやすい。引っ張ると言えば、サンドウィッチマンの不動産というネタではちんこを引っ張りすぎるトミザワが出てくる。なぜ、どうしてトミザワがちんこを引っ張り続けたのか気になった方は、ぜひサンドウィッチマンのネタを見て確かめてほしい。

 

 自分のためだけにある人生は、一つの人生だと思う。でも、他の人と関わって楽しさや喜びを共有できたら、その人生は二つになるんじゃないかと思う。生きる人は、たどった道を振り返って初めてこの道を来たのかと気づく。一番最初の旅行計画とは微妙に、いや、かなり違った道を来ていることがままある。果ては、どこにこんな道があったのだろうと思うような、予想不可能なところに立っていることもある。他人などどうでもいいと思っていた人でさえ、これまでの道のりで思い出さずにはいられない人がいるだろう。胸に手を置いて考えたらば、彼らの影響が自分に進む方向を示してくれていた、なんてことすらある。いいことをしようがわるいことをしようが死ぬのだからそんなものに意味はない!そう思うなら、好きにするのも一つの手かもしれないな。僕はやらないが。

 僕の人生の流れのなかで、今感じていることがいくつかある。それは、

多くを求めない心がいかに自分を満足させるかということ。

どうやっても無理なことがたくさんあると知ること。

幼心に感じた不満や怒りは忘れずにとっておくべきだということ。

泣きたいときは泣いていいと知ること。

寄り添うことは時に、適切なアドバイスをすることの何倍も、傷ついている人を癒す力があるということ。

当事者意識というのはいかに脆く儚いものかを知ること。

物事を選び取る勇気を持つこと。

何事も両極端を知ったうえで真ん中に戻ること。

何事も良い面と悪い面の両方を見つめること。

イチ注意したらサン褒めること。

格言は結構的を得ているということ。

僕と全く同じ人間が一人もいないように、僕と全く違う人間も一人もいないということを覚えること。

 

2017.7.21